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大黒寺~壺井八幡神社~叡福寺例会のレジメ

リーダー 根来春樹

坪井八幡宮 源頼信ヨリノブ、その長男頼義ヨリヨシ、その長男八幡太郎義家ヨシイエは平安時代後期に名を馳せた武将であり、後に(1185か1192年)に鎌倉幕府を開いた源頼朝のご先祖である。源頼信は各国の国司を勤めたあと1020年に河内の国司に着任した。その子頼義、孫八幡太郎義家とともに「河内源氏三代」と呼ばれている。1051年、陸奥(ムツ東北地方)で反乱を起こした阿部頼時ヨリトキを討てとの朝廷の名を受けて、頼義は石清水八幡に勝利の祈願をし、義家を連れて陸奥に赴いた。阿部頼時に続いてその息子貞任、宗任も激しい抵抗を続けたが苦戦の末勝利できた。(1062年・前九年の役)
戦いの間に旱魃に合い飲み水に困った。頼義は「八幡様お助け下さい。水を下さい。このままでは負けてしまいます。」そう言って弓矢の先で崖をうがっていると清水が湧き出てきて戦いに勝利できた。この水を壺に入れても持ち帰り、石清水八幡宮の神霊を移し祀ったのがここ壺井八幡宮である。持ち帰った水は井戸を掘って埋めた。その井戸は今も神社の石段の下にあり「壺井水」と案内がある。以上昭和の末年に昭文社の「葛城高原・二上山」を執筆するときに、当時の宮司さんからご教示いただき冊子に書かせてもらった。水が出た現地では岩手県の北上川の源流になっていて祠を作ってお祀りしている(弓と弓編に耳ユハズの泉)。この地から壷井水を確かめに来られたことがある。井戸水への信仰もあって、何十年も前のこと、村人がその家族が入院した時壷井水を病院へ持って行って飲ませたなど、10/23に神社でお聞きした。近くに頼義が菩提寺として建てた通法寺の跡がある。後に伊豫守に任じられ88才で歿。1700年に徳川綱吉が建てさせた源頼義の大きな墓碑がここにある。頼信、義家の墓も近くにあるが何故かこの道は閉められている。
叡福寺 622年に聖徳太子が死去しここで埋葬された。前日にはお妃が、二ヶ月前にはお母さんが亡くなったので一緒に埋葬されていて三骨一廟の名がある。聖徳太子が亡くなられた時に、その墓を維持管理するために一堂を構えたのがその始めであり、724年に聖武天皇が伽藍を建てさせた。1574年織田信長の戦火で堂塔の全てが灰塵と化したが1603年豊臣秀頼が聖霊殿を再建、また江戸中期には宝塔、金堂などの伽藍が再興された。                     

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