PAGE TOP

「葛城王朝が栄えた地を巡る」レジメ

 -P1-

2022年4月3日葛城王朝が栄えた地を巡る例会のレジメ

金剛山葛城山の東麓が生み出した役行者と葛城王朝について、どんな存在なのかを考えながらいつもは国道24号線西側の葛城古道を歩いているが、今回の例会は、午前は御所市文化交流センターで、午後は国道の東側のゆかりの地を歩く、ということにした。
(1)役行者のこと
奈良時代には「役行者本記」「役行者顛末秘蔵記」から平安時代の「続日本紀」797、「日本霊異記」822)、鎌倉初期?の「諸山縁起ショザンエンギ」、江戸時代には「役君形生記エンクンケイセイキ・ギョウショウキ」「役君徴業録」「役行者絵巻」「役行者霊験記」「役行者御伝記ゴデンキ図会」など、役行者についての文献は数多い。
他にも多数の文献を一つ一つ明記しながら解説している志村有弘の「超人役行者小角」はじめ黒須紀一郎、藤巻一保、銭谷武平、黒岩重吾、坪内逍遙などの解説が役行者を理解する上で大変有り難かった。
また「金剛山記」(葛城 貢発行)も役行者について詳しくまた分かりやすく解説している。これらのご労作の全てをこのレジメを書くのに参考にさせてもらった。
その一部を紹介してみよう。
その名前について。日本霊異記822では役優婆塞 賀茂役君カモノエノキミ、続日本紀797では役君小角であり、役行者は平安時代からの尊号635~702頃の人で舒明34から文武42までの九代の時代を生き抜いた。
その時代的背景は?
中大兄皇子、中臣鎌足が乙巳の変(大化の改新645年)で蘇我入鹿を殺し、その父蝦夷が家に火を放って自殺したことで、それまで政治の実権を握っていた蘇我氏が滅びると蘇我の領地にいた鴨族は大変なことになった。
孝徳天皇36が難波宮、斉明天皇37は三度も宮殿を作った。
663年には中大兄皇子のちの天智天皇38は、滅ぼされた百済の残党と組んで800隻とも1,000隻とも言われる船団を率いて唐・新羅相手の白村江ハクスキエの戦戦で大敗。
当然税の取り立ては厳しく、金剛、葛城、生駒、吉野、大峰、熊野の山中に逃げ込んだ。ここまでは追いかけてこなかった。
悩み苦しむ人達に救いの手を差し伸べようと、友が島から亀の瀬までの二十八里の山中に、二十八の経塚を作って法華経二十八品を埋納した。

-P2-

天皇との深い関係
1. 舒明34 天皇の後落胤 舒明が狩猟に来た時、母白専女の口の中に、雲に乗って下りてきた独鈷杵(トッコショ・仏具)が飛び込んで来て妊娠して生まれた。とは言っていたが文武の時代に真相を告白(5.参照)。生まれつき博学で「衆生を救いたい」→白専女「こんな子はよう育てません」→捨てられた役行者は大和の商人に拾われて母の元へ。
2. 天智38 白く光る石があって掘り出したら弥勒三尊の石像 天智天皇の勅願で、役行者は石光寺を開山
3. 天武40 壬申の乱で協力(日本書記) 鉄製の武器で協力(続日本紀) 麿子皇子(聖徳太子の弟)が河内山田に建てた万法蔵院を今の当麻寺(当時の名は禅林寺・後に当麻寺に改称)に移設。この土地は天武が役行者に頼んで提供させた。
4. 持統41 天武の皇后時代と文武に譲位後を合わせて33回も役行者に会って情報収集。
文武に譲位後役行者に用事がなくなり伊豆へ流した。讒言したのは韓国広足カラクニノヒロタリ(続日本紀)か一言主神(日本霊異記・今昔物語)
5. 文武42 いよいよ処刑となった時、母白専女が宮中で役行者の父は誰かと尋問されて、「独鈷杵が口の中に飛び込んで来て」は否定して、舒明34の恩寵を受けたことで天皇の後落胤であることを告白、無罪にして宮中へ迎えたが(「役行者御伝記図会」)、自分の望みは悩み苦しんでいる人達を悟りの世界へ導くことだと言ってお断りした。
(2)金剛山の山名の由来 
736年に華厳経を唐の僧道璿ドウセンが伝え、740年には新羅の僧審祥シンショウが東大寺で華厳経を講じて寺を根本道場とする華厳宗ができた。華厳経に「金剛山で法起菩薩が千二百人の諸菩薩衆を集めて法を演説す」と書いてある。
平安末期とも鎌倉初期とも言われる「諸山縁起」の第十九項に「役優婆塞は金剛山の法起菩薩なり」と書いてあり法起菩薩の化身としている。それならこの山こそ金剛山という考え方が、遅くとも鎌倉初期には広まっていたと考えられる。
また「転」は説法、「法輪」は仏法の意味で金剛山を「転法輪山」とも呼ぶようになった。金剛山記」P140、164、212、228を参照されたい。
(3)古事記のこと 鳥越憲三郎の「古事記は偽書か」(朝日新聞社発行)の記事の紹介である。以後日本書紀は「紀」、古事記は「記」と略称する。
戦後の教育で育った私は目が覚めた思いがした。
え、えっ、こんなことがこの世でまかり通るの?と思った。
古事記の序に出ている「元明天皇が太安万侶に命じて稗田阿礼が暗唱した歴史を筆録させ和銅5年712年に撰上させた」の文言を日本国民は教えられてきたがとんでもない。

                                                                                               -P3-

太安万侶の子孫の多人長が823から833年の間に作った「弘仁私記」の中でこのように書いているだけで、1270年に「釈日本紀」で紹介されるまでどんな勅撰歴史書も載っていない。
「弘仁私記」には712年に作られたと出ているが、それから85年後にできた797年の「続日本紀」には古事記のことは出ていない。「日本書紀」「続日本紀」を含めて901年の「三代実録」までの6冊の勅撰史書六国史リッコクシにも、また815年に嵯峨天皇の勅命で編纂された氏族名鑑「新撰姓氏録」にも古事記のことは載っていない。「元明天皇の勅命で撰録した」と古事記の序文にあるにもかかわらず、である。翌年に出来たとしても816年以後のものということになる。
系譜については紀よりも記が詳しいのに紀は記を参照していない。
嵯峨天皇52は弘仁3年812年に安万侶の子孫多人長オオノヒトナガに朝廷で日本書紀を講筵させ、筆録させたものを「弘仁私記」と呼んでいる。その序の中で元明天皇が712年に編纂を命じたこと、太安万侶、稗田阿礼など古事記のことをこの世に初めて紹介した。
「弘仁私記」はその中で嵯峨天皇を「冷然レイゼイ聖王」と呼んでいる。「冷然聖王」と呼べるのはその皇子に皇位を譲られたあとの823年から833年淳和天皇53の在位期間だけである。
したがって古事記が作られたのは、上限下限を最長にとっても816年から833年の間となる。
しかし弘仁私記の講筵は嵯峨天皇の弘仁3年812年のものだけに、823年淳和天皇の時代になっても早い時期に出しているはずだから鳥越憲三郎氏は古事記ができたのは816年から825年頃ということである。712年ではない。
日本書紀には古事記の記事を使ったとみられる形跡はなく、古事記は日本書紀の伝承記録を総合的に取り入れているケースが数多い。独自のものがない。
用語についても日本書紀の用語は古く、古事記は新しい。一例をあげると記に出ている「八百万神ヤオヨロズノカミ」は紀では「八十万神ヤソヨロズノカミ」。
八十万神は古い用語で八百万神は新しい。八百万神は柿本人麻呂(707年没)の歌に既にあるが紀が720年に出来た頃にははまだ一般化されておらず、この表現を使わず八十万神としている。八百万神とする記の方が新しいことになる。
古事記が日本書紀を見て本文や各部族の書いた歴史を纏めたというケースを徹底的に書き出し、また日本書紀が作られる時に古事記を参考にしたケースが全くないことを、多数の例をあげて論証している。
「古事記は偽書か」を是非お読みいただきたい。 

 

    -P4-

大東亜戦争敗戦で連合国の占領下におかれた時、マッカーサーは古事記日本書記を封じ、日本人と記紀を切り離した。二度と戦争を起こさせないように、である。
二十世紀を代表する英国の歴史学者アーノルドトインビーArnold Joseph Toynbeeの「十二、三才くらいまでに民族の神話を学ばなかった民族は、例外なく滅んでいる」という言葉はよく知られている。この戦略によって日本人が日本人の精神を失い骨抜きになることを意図したものであった。(竹田恒泰著「現代語古事記」)
占領下の歴史教育で育った私は鳥越憲三郎著「神々と天皇の間」を読んで驚いた。
古い古い話になるが、昭和58年岳洋社からワンデルングガイド①「金剛山」を書くようご依頼があって、その時、当時の金剛山葛木神社の宮司葛城 貢氏に「葛城家は天神立命アメノカンタチノミコト別名八咫烏ヤタガラスから続いてきた家系であって私で132代目。これを書きなさい」と言われて困った。
戦後の教育で育った私には神話は歴史的事実でない。科学的ではない、学ぶに値しない、であるから、ナントカノ命ミコトは信じられない。しかし本には書いたから「詳しくは葛城 貢氏に尋ねられるとよい」とした。しかし何かがあるのでは?と思っていたから「神々と天皇の間」と出会って目からうろこであった。
戦後76年経った今、伝承や伝承文学に光を当て目を向けるべきだ。この後井上光貞著「日本書紀 上」を手に入れて理解が楽になった。
(4)葛城王朝実在の論拠
1. 葛城王朝9代の都と陵墓が北東と南西か北西と南東の位置関係。
2. 延喜式で最高の社格名神大社は大和に9社ある。金剛葛城東麓に鴨都波神社、御歳ミトシ神社、一言主神社、葛木水分神社、高天彦神社、火雷神社の5社。大和朝廷があった三輪山麓に大神大物主神社、兵主 
ヒョウス神社、大国魂神社、布留御魂フルノミタマ神社の4社(金峯神社、飛鳥坐神社、弥志理都比古神社は後に昇格)。王朝所在地に集中している。
3. 日本書紀によると神武天皇は即位されて皇后を迎え3.で述べた第一皇子神八井耳命カムヤイミミノミコトと第二子(次頁の手研耳尊を殺して綏靖天皇2)が生まれた。
多坐オオニマス弥志理都比古ミシリツヒコ神社の祭神は弥志理都比古神ではなく神武天皇の第一皇子神八井耳命である。何故?
従四位下に叙位され、また多一族の長となった太安万侶(続日本紀797)が  


-P5-

弥志理都比古神社を名神大社に格上げしてもらうために神八井耳命を自分の始祖とし、祭神として祀ったことで成功した。
始祖に選んだこと自体、太安万侶が葛城王朝を正統なものと認めていた 
証左。また子孫の多人長が弘仁私記に「太安万侶が元明天皇の勅命で古事記の撰録をした」と書くくらい歴史に通じていた人だから神武天皇の実在は信じられる。
4.日本書記巻第三に、神武天皇が「畝傍山の東南(西南の誤記)の橿原の地は国の真ん中にあたるようだ。ここに都を作ろう」と言われたと出ていて、地図を開くと3.5km西南に御所市柏原がある。柏原という地名は奈良時代の「東大寺奴婢帳」や続日本紀797年にも出ている。
本居宣長は「菅笠日記」(1772)の中で畝傍山に来て「かしはら」という名は残っていないかと問うと「一里あまり西南の方にはあるがこの近くにはない」と言われたと述べている。橿原市でなく御所市である。
同じ日本書記巻第三に「辛酉カノトトリの年の(中略)天皇は橿原宮に即位された」と記載されている。
5. 同じ日本書記巻第三に「神武天皇が腋上ワキノカミの嗛間丘ホホマノオカにのぼられて豊作祈願の言挙をした中に蜻蛉アキツが出ているので秋津洲アキツシマの名ができた」と書いてある。そして今も即位の地に秋津の地名がある。掖上も本馬も地名は現地にある。

日本書記巻第四によると神武天皇に続く葛城王朝の八代の天皇は周辺の平定を進めていったことがお妃の出自から読み取れる。
神武1から懿徳4までのお妃は鴨族(懿徳のお妃は兄の娘になっているが兄第一子は結婚していないはずなので疑問)。孝昭5、孝安6は尾張族。孝霊7は初めて外族から磯城の県主、孝元8は后に物部、妃には河内に物部の配下、開化9は后も妃も物部、他の妃は山城、丹波となっていて勢力範囲を大きく広げていったことが分かる。また古事記によると吉備国まで政治的制圧を果している。
日本書紀によると神武天皇は即位されて皇后を迎え3.で述べた神八井耳命と第二子(次頁の手研耳尊を殺して綏靖天皇2)が生まれた。
(5)金剛葛城の葛城名
日本書紀巻第三に神武軍勢は(金剛葛城の東麓高尾張邑で抵抗した者に)

                                                                                      -P6-

葛のつるを編んで網を作ってこれを覆いかぶせて捕えて殺したことで(高 尾張邑を改めて)葛城というと出ている。
皇軍結葛網 而掩襲殺之 因改號其邑日葛城
古事記では神武天皇の跡を継いだ綏靖天皇について
葛城の高岡の宮に坐しまして天の下治シらしめき
葛城に都つくる。是を高丘宮タカオカノミヤと謂う
雄略天皇について古事記は
天皇、葛城の山の上に登り幸イでましき。爾ココに大猪オホイ出イでき。
吾アは悪事マガゴトも一言ヒトコト、善事ヨゴトも一言、言離コトサカの神、
葛城の一言主ヒトコトヌシノオオカミぞ
万葉集では、
   葛城の襲津彦真弓荒木にも 頼めや君が我が名告ノりけむ
   春柳 葛城山に立つ雲の 立ちても居ても 妹イモをしぞ思う
   葛城の高間の草野カヤノはや知りて 標刺シメサささましを今ぞ悔しき
など、葛城の名がついてからは、古くから「葛城山」が使われていた。
金剛葛城を区別するため葛城山なら「くめじ」、「岩橋」を、金剛山なら「たかま」をつけているケースが多い。
(6)論功行賞と金剛山葛木神社宮司家の葛城名
神武天皇即位の翌年、周囲の平定の功労者7人を選んで論功行賞をしたが、選ばれた劔根命ツルギネノミコトは葛城国造カツラギノクニノミヤツコを任じられその子孫は葛城を名乗ることになった(新撰姓氏録815で神別に所属)。
葛城家に伝わる系譜によると第三代は劔根命になっている。
宮司葛城 裕氏は系譜によると初代八咫烏ヤタガラスから第134代目となるがこの八咫烏も論功行賞の対象になった。
金剛山葛木神社にこのような系譜が残っている金剛山は、神武天皇につながる歴史があることで他に例のない山であり、特異な存在と言える。
(7)武内宿禰と葛城襲津彦、磐之媛のこと
孝元天皇8、その孫武内宿弥、その子葛城襲津彦、その子磐の媛
武内宿禰は、葛城王朝を倒した大和朝廷の景行12、成務13、仲哀14、応神15、仁徳天皇16の五帝に仕えた。応神の母神功皇后と新羅へ渡った)。
葛城襲津彦は戦いに強いことで有名。対朝鮮外交で活躍した。その父武内宿禰の功績が高く評価されたことで葛城を再興することが許され、葛城襲津彦は葛城を名乗って本宗ホンソウ(総本家)としての地位を築き上げた(新撰姓氏録で皇別)。しかし数代で滅び、宿弥の子孫から蘇我氏が台頭する。

                                                                                  -P7-

磐之媛 仁徳天皇の皇后 履中17、反正18、允恭19の母磐之媛が紀伊国へ出掛けている間に仁徳天皇が、古事記では八田若郎女ヤタノワカイラツメ 日本書紀では八田皇女ヤタノヒメミコを妃として宮中に入れられたことを難波の津まで帰って来て知り、もう難波の高津宮には帰らないと心に決め、着岸せず山背川ヤマシロガワ(木津川)を遡った。更に那羅山ナラヤマを越えて葛城を望み、私が見たいのは、もう見ることのない我が家のある葛城の高宮の辺りだと詠まれた歌が記紀に出ている(記は「つぎねふや」)。
つぎねふ 山背川を 宮のぼりわがのぼれば 青丹よしならを過ぎ 
をだて倭ヤマトをすぎ わが見がほし国は 葛城高宮吾家ワギヘのあたり
このあと山城に戻られて筒城岡ツツキノオカ(京都府綴喜郡田辺町普賢寺付近)に宮室を作られて住まわれた。天皇のお遣いは雪雨に濡れながら昼夜を通して帰って欲しいと頼み、天皇も行幸されたがお会いにならなかった。
その五年後に皇后磐之媛は筒城岡で崩じられた。
(8)神武東征の計画から大和入りまで
(日本書紀巻第三に)神武天皇は阿多(九州西南端。日本書紀では吾田邑)の娘を娶られて手研耳命タギシミミノミコトをお生みになった。
神武45才は兄五瀬命イツセノミコトや手研耳命にこんな相談を持ちかけた。
遠い地方はまだまだ王化に潤っていない。村々には酋長がいて各々境界を分け、相戦い、しのぎあっているのが現状だ。東の方に美しい国があって天磐船アメノイワフネに乗って飛び下ってきた者がいると聞いた。多分饒速日ニギハヤヒ(物部氏の祖神)であろう。そこに行って都を作ろう。どう思う?
みんな賛成した。
神武は日向から速水之門ハヤスイノト(豊予ホウヨ海峡)を通って筑紫へ。そこから出発、吉備国に着き、ここに三年滞在して舟を準備、兵器や食糧を蓄えた。
瀬戸内海から難波之碕に着いた。潮の流れが速いので浪速、浪花と名付けた。今(721年)はなまって難波(日本書紀の注記)。ここから川を遡って河内の草香クサカ邑(日下)の青雲の白肩の津に着いた。
先ず信貴山の南麓竜田から大和へ入ろうと徒歩で竜田に向かった。ところが道が狭く険しく、軍列を進めること困難になり、日下に引き返した。
今度は生駒越えで大和へ入ろう。
然し全兵力を動員した長髄彦の軍勢と孔舎衛坂クサエノサカで戦って五瀬命イツセノミコトが矢を肘に受け進軍は不可能となった。
神武は考えた。私は日の神天照大神の子孫なのに、日に向かって賊を討つのは天の道に反している。今は撤退して今度

 -P8-

うようにして攻める。敵は血ぬらずして敗退するだろう。今は撤退だ。五瀬命の傷は益々痛んだ。
和歌山市の雄水門オノミナトに着いた。和歌山市の竈山に来て五瀬命イツセノミコトは亡くなり、葬った。そこで竈山神社が主祭神として五瀬命を祀っている。
そのあと熊野から大峰台高越えで宇陀に入り(天皇日の皇子論強調のための話で実際には和歌山から紀ノ川をさかのぼって)大和の高天原に住みついた。
日本書紀編纂事業の開始者天武天皇が天照大神の力を強調する意図が見えている。 大来皇女を伊勢神宮の斎宮に任じ天照大神を祀ることを制度化した。
(9) 御所市の高天原で現実に起こったことと天孫降臨神話
鴨神の風の森付近は水田農耕の関西での発祥の地と言われている。鴨族が水田農耕を営んでいたがその分派が、鴨神の山中から流下する葛城川に柳田川が合流する肥沃地で事代主神を祀って水田農耕をして豊かに暮らしていた。
近鉄御所駅の400m程南の鴨都波神社で今も事代主神を祀っている。
ここに目をつけた神武の一行葛城族は鴨族と何度も交渉を重ね、一緒に水田農耕をするようになり、結局は葛城族が鴨族を支配するようになり、2.4kmほど東 の本馬山の麓で初代天皇神武天皇として即位した。
この地で起こった歴史的事実を、神様と神様の話として物語ったのが神話であり、部族が移動して他の部族の地に乗り込んでいって支配することが降臨であるから天孫降臨神話、国譲り神話として「日本書記巻第二 神代下」に出ている。
高天の高天彦神社の祭神は神武天皇から五代さかのぼる高皇産霊神タカミムスビノカミである。神話では雲の上にいるこの神様が下界を支配しようと考えた。
孫の瓊瓊杵尊を降ろすために交渉した相手は出雲の国の大己貴神オオアナムチノカミ(=大国主命)で次々色んな神様を送って交渉させる。最終的には二柱の神様 経津主神フツヌシノカミと武甕槌神タケミカヅチノカミは「十握劔トツカノツルギを抜いて逆さまに地上に突き立て、その切っ先の上にあぐらをかいて坐り、国を譲るのかどうなんだ、返事を聞こう」と迫る。
大己貴神は「美保の碕で釣りをしている息子に聞いてから答える」と回答。その息子というのが事代主神であるから歴史的事実がきちんと入っている。
事代主神は承諾して船の枻ヘを傾けて退去、大己貴神もおかくれになって落着。高皇産麗神はその孫瓊瓊杵尊ニニギノミコトを日向の高千穂の峯に降ろした。瓊瓊杵尊は九州の西南端、吾多半島の笠狭碕カササノミサキに住んだ。
交渉した相手は出雲で降りたのが日向、住んだのが九州西南端の吾多など舞台が広範囲。登場するのも全国各地の神様。降臨神話では話を日本全土に広げているがその物語の元は御所市の狭い地域で起こった歴史的事実である。

 

-P9-

(10) 高皇産霊神?天照大神ではないの? 天照大神が出てくるのは日本書紀巻第二 神代下の本文の冒頭に、天照大神の御子天忍穂耳尊アメノオシホミミノミコトは高皇産霊尊の娘栲幡千千姫タクハタチジヒメを娶って瓊瓊杵尊を生んだとする41文字がある。つまり瓊瓊杵尊の直系の祖父は天照大神ということになる。
天照大神之子正哉吾勝勝速日マサカアカツカチハヤヒ天忍穂耳尊アメノオシホミミノ
ミコト、娶高皇産霊尊タカミムスビノミコト之女栲幡千千姫タクハタチジヒメ、生天津彦
彦火アマツヒコヒコホノ瓊瓊杵尊ニニギノミコト
この41文字で、瓊瓊杵尊から万世一系と明記されている天皇家の皇祖は天照大神になってしまった。しかし注意して読んでみよう。42文字目からは最後まで、天孫降臨の命令者は高皇産霊神である。
本文42文字目から1700ほどの文字で、中国ナカツクニ(=地上の日本)を平定するため出雲の大己貴神オオアナムチノカミ(=大国主命)のもとへ何度も使者を送り、国を譲らせてから(経過の概略は次頁に記載)瓊瓊杵尊を日向の高千穂峰に降臨させる作戦を取り仕切る経過が詳しく書かれていて、瓊瓊杵尊の皇子彦火火出見尊が崩ぜられた瓊瓊杵尊を日向の山陵に葬られるところまで記述されているが天照大神の名は一度も出てこない。出ているのは高皇産霊尊だけである。
従ってこの41文字は後の加筆であり、元々は高皇産霊神である。
高皇産霊尊を天照大神にかえた天武天皇40は初めて天照大神を祀ることを制度化して、皇女大伯皇女を伊勢神宮の初代の斎宮とした。
これは日本書紀巻第二の本文であって、幾つもの部族に伝わる歴史を上申させて、ほぼ共通する歴史を載せている。一部族だけが命令者を天照大神とした。
天照大神に書き換えた天武天皇にとって有り難い記述がこの中にある。
天照大神は日向へ降臨する天孫瓊瓊杵尊に対し「豊葦原の瑞穂の国(=日本の国)は天照大神の直系の子孫が王として治める国である」との神勅を授けた。
天照大神・・・因勅皇孫日、葦原千五百秋之瑞穂國、是吾子孫可王之地也
これである。
日本書紀の記事を纏めて作られた古事記も天照大神と高皇産霊神としている。
ぜひ鳥越憲三郎氏の「神々と天皇の間」をお読みいただきたい。
P2(3)「古事記のこと」を読み返していただきたいが、鳥越憲三郎著「古事記は偽書か」によると江戸時代に本居宣長や新井白石が古事記を激賞して重く見たことから古代史研究の王座を占めた。明治維新からは古事記は神典扱いになり、大東亜戦争集結までは古事記に科学的批判を加えるのは許されなかった。日本国民は天照大神が天孫降臨の命令者で皇祖だと教えられてきたのである。                                                                              

                                                                                    -P10-

何度も使者を送り、国をゆずらせた。
その経過の概略は次のようになっている。(井上光貞監訳「日本書紀 上」参考)
高皇産霊尊は八十諸神ヤソモロカミを招集して誰を派遣しようか諮問された。
先ず天穂日命アマノホノヒノミコト。次にその息子。どちらも居心地が良くて帰ってこない。
次は天稚彦アメノワカヒコ。ところが「俺も葦原中国ナカツクニを支配しよう」と言って帰ってこない。そこで雉を飛ばせて様子を探らせた。
奇妙な鳥が門の木にとまったので、天稚彦は派遣するときに高皇産霊尊にもらった天鹿児弓アマノカゴユミと天羽羽矢アマノハバヤでその雉を射殺した。矢はそのまま高皇産霊尊の御在所までとんで行った。
高皇産霊尊はあの時の矢だと気付いてそれを投げ返したところ天稚彦の胸に命中して死んだ。これが(日本書紀が作られた720年当時の)世間の人のいわゆる「反矢カエシヤおそるべし」の由緒である。
高皇産霊尊はまた神々を招集して次の派遣者を選んだ。
経津主神フツヌシノカミが選ばれ、「私も」と語気も激しく武甕槌神タケミカヅチノカミが名乗り出て、この二はしらの神が出雲国の五十田狭イタサの小汀オバマに降臨。
十握劔トツカノツルギを抜いてさかさまに地上につきたて、その切っ先にあぐらをかいて坐り、大己貴神オオアナムチノカミ(大国主命)に尋ねた。
高皇産霊尊が皇孫瓊瓊杵尊を地上に降ろされて葦原中国を統治されようとしている。我々は邪神をはらい平定させるために我々は派遣されたのだ。国を譲るか、どうだ、返事を聞こう。
大己貴神は答えた。私の子に尋ねてからお答えいたします。
その子の事代主神(鴨都波神社の祭神=稲作で生活していてのちに葛城族と一緒に農耕を営むようになった鴨族の祭神)のもとに使いを派遣した。
事代主神  了解しました。父神よ。どうぞこの国を献上なさいませ。
使者は帰って大己貴神に復命した。大己貴神はその旨を二はしらの神に伝えて全て終了となった。大己貴神も事代主神もそれぞれその場でおかくれになった。
高皇産霊尊は瓊瓊杵尊を日向の高千穂峯タカチホノタケに降臨させた。
日本書紀巻第二の本文は以上のようになっている。
他の部族に上申させた歴史は「一書日」として解説されているが第二、第四、第六も降臨命令者は高皇産霊尊である。猿目君サルメノキミ(部族の名)が上申した第一だけが天照大神。古事記は高皇産霊尊天照大神としている。
以上金剛葛城の歴史の特殊性を部分的ではあるがご紹介した。日本一の山であることをご理解いただければ有り難い。                                                                                                                       リーダー 根来

Print Friendly, PDF & Email