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50年経っての思い出話

50年経っての思い出話

1.金剛山剛友会の創生期

江崎悦行さん、 松谷千代美さんと私の三人が日の暮れるのも忘れて金剛山を歩きまわった。 昭和49年5月12日のこと、 「剛友会」と名の元に歩こうということになった。歩いたことのない谷や尾根に入って行くのだから情景が全く記憶に残らない。 進退きわまって戻ろうとしても、また後日同じコースを通ってみようと思っても、通ったかどうかもわからない。 そこで幅2.5cmのビニールテープを巻いて自分達が通ったと分かるように名前を書いておこう。その名前はこの3人なら誰の名前でも良かったのだが金剛山のお友達という意味で「剛友会」にしようということになった。当時仲西政一郎氏が昭文社から 「エアリアマップ金剛山・岩湧山」を 出しておられて、そこに出ている登山コースを片っ端から歩いてみようというわけである。 勿論地図には載っていないが登山価値のある道も数多く見つかってそれも歩いた。金剛山へは大勢登っているが私が金剛山を登り始めた頃は五つか六つのコースに集中していた。そのコース以外で楽しく歩ける登山道を紹介してはどうかという話が丹橋義人さんからあった。金剛山葛木神社の当時の宮司葛城 貢さんも賛成して下さり早速第1回の山行のポスターを作った。
昭和49年 1974年8月11日剛友会は第1回の例会を開催して産声をあげた。これには宮司さんの大きなご支援があった。 森屋、 青崩や水越峠から金剛山頂に至る道、 紀見峠や天見から金剛山頂に至る道、 近鉄御所駅から南、 五條に向かって寺田橋、 鳥井戸、 船路、 風の森、 住川(スガワ)、 そして終着は五條のバス停があるがそれぞれのバス停から麓から谷や尾根、峠をいくつも通って金剛山頂へ登り着く道は沢山ある。 これを徹底的に探歩して紹介しようというわけで、今考えれば夢としか考えられないとんでもない構想であるが宮司さんは応援して下さった。第1回の封切りのポスターを書いて、 山頂の売店の前に立てられている金剛錬成会の登山回数の掲示板の下の枠に張ったところ某氏が取り外して、売店前の広場の一番奥にあって使われていなかった小屋に移し変えた。宮司さんはそれを見られて 「ポスターがそんな場所では誰も見てくれない。 売店に向かって左にある小屋は今は使っていないからそこへ移しなさい」。 目抜きの場所である。 有り難かった。
昭和38年頃金剛錬成会を宮司さんが作られて金剛山に登ったらカードに金剛錬成会の印と日付印を押していた。 最初は宮司さんが社務所(今の寺務所)で押していたが後に売店で押すようになり、さらに後に剛友会がポスターを張らしてもらっていたこの小屋は金剛錬成会の登拝回数の版取り所として使うようになったので、 ポスターは移動して今の掲示板になったものである。
掲示板は最初井田秀和さんが作って、それを山頂まで担ぎ上げることができる大きさに分解して千早までトラックで運んでくれたのを会員が千早本道で運び上げて組み立てた。 平成3年6月9日のことである。掲示板の足下が朽ちてきたので新しく作り直したのが今の掲示板でこの時は淡路 弘さんが顧問先の業者さんに頼んで千早まで運んでもらい、分割したパーツを会員が運びあげて組み立てたものである。
この掲示板に金剛山案内の例会のポスターを張っていったが50年間このポスターが一度も切れたことがない。 三十周年までは岸上和子さんが、その後は祓川さんが書いてくれている。 ポスターを50年間続けることができたことに葛城家のご協力に感謝。 感謝の言葉以外にない。

会員の皆さん一人一人にお願いする。 金剛山を中心としたダイトレとその山麓の登山ルートの研究と紹介 (その他の山も含まれている)は会則第2条に書かれている。 一般の人に見られない金剛山の谷や尾根の登山コースを次々紹介して、 金剛山ってこんな山? と知ってもらう。これは金剛山剛友会にしかできないことでその目的のために掲示板を活用していただきたい。神社の境内で登山の会の掲示板を立てさせてもらえる例はない。 神域として神社の美観のひとつになる。 なるほど金剛山葛木神社だけに金剛山の紹介に尽力しているのだなと一般の登山者に思ってもらえるような中身のある掲示板、しかも神社仏閣の境内の雰囲気を損なわない掲示板にしていく使命を金剛山剛友会として帯びていることを意識して内容、 体裁を勘案してほしい。これを怠ることがあると、許可してくれた神社に申し訳ない。
50年前にさかのぼるが、 昭和49年8月18日会章のデザインが決まり、12月1日にはワッペン20コができた。一つ150円で業者に作ってもらった。葛城 貢宮司さんは会を成長させるために合議制にしなさいとアドバイスをいただいた。早速•・・
昭和51年 1976年8月22日今の東水分バス停から池ノ谷を遡行して鞍取坂道 (水分道) に出て金剛山へ登り国見城跡で第1回の総会を開き、投票によって根来、 松谷繁彦、 松谷千代美、 田中義晴、 小林純子、坂倉孝秀の6会員を理事(当時の名称で企画委員) に選出して役員会、今の理事会を作った。 会則も作った。 それまでは私が手元のノートに全て記録しているだけであったが、 企画委員松谷千代美さんが会として会の記録は残しておくことが大切ですよと提案され、 昭和 53 年 9 月3日会報も作った。 第1号は 「剛友会告知板」 56年1月8日から会報 「金剛山」になった。
会員のご意見を聴く。 スタートからこの姿勢であったことが発展に繋がった。 会歌は昭和51年3月にできた。 歌詞は松谷千代美さん、 曲は松谷千代美さんと根来が相談して作った。 曲は元歌があったが悲しい曲なので会歌らしい明るい元気な曲に変え、 根来がその場で楽譜を書いた。 歌詞も曲も全くその時作ったままで今日に至っているが、 会歌は50年間会を愛する精神を育ててきた。今の会則は昭和53年5月にできた。
50週年を迎えて宮司さんに感謝したいことは山ほどあるが、 発会当時の会名は剛友会であったが頭に「金剛山」 をつけて下さったこと。これは発会10年後、 後述の「ワンデルングガイド1金剛山」 (昭和59年 1984年)出版の時、 正式に 「金剛山剛友会」の会名をいただき著者の肩書きとした。 今の会名 「金剛山剛友会」の名付け親になって下さったことは 「金剛山剛友会三十年の歩み」 (平成17年12月11日) の中で 「30年を振り返って」に明記した。昭和49年5月剛友会の会名ができた。 誰も聞いたことのないコースを取り上げないと意味がない。 参加してくれない。 何度も下見をしながら次々コース取りを考えていった。
第1回は昭和49年1974年8月11日。 金剛南尾根今の言葉でダイアモンドトレイル。西の行者を通り過ぎると電発の鉄塔があり、 すぐダイトレを離れてタイ谷に向かって右へそれて下る。 タイ谷など誰も聞いたことのない道ではあったが参加者は12人。
第2回 昭和49年11月17日金剛山頂から下って坊領山645mへ行き、右手 (北側)のアシ谷に下りて谷沿いに森屋。 当時金剛山の登山者は多かったが坊領山とかアシ谷とかを知る人はいなかった。 谷を下って良く知られた森屋? それなら一回参加してみようと思ってもらえると思ったが蓋をあけたらわずかに5人。 雨が降っていたこともある。
第3回 昭和50年1975年1月19日高天谷遡行。近鉄御所駅集合、 五條行きのバスに乗って鳥井戸で下り 1時間ほど歩いて高天彦神社に着いた。 神社に向かって左の道を歩くとすぐ左手が高天谷になり間もなく高天滝。 6mほどだが直下でお不動さんが滝の姿、形を引き締めている。その上流に9mの堰堤を背負っていて14mの滝が続く。形の良さは金剛一、 雪や氷の衣装をつけると一段と魅力的である。 高天谷はその後も人気があって実施した回数は最も多い。これらの滝や斜瀑は最初は左 あとは右側から巻き道で落口に出られた。最後の谷の分かれで右俣を取るがこの滝だけは中尾根を上るから左側。この時は冒険好き人間が集まって流石に14人。
第4回 昭和50年2月16日 妙見尾根を下ってババ谷を下山、 バス道を渡って五條林道を上り、右にそれて東条山 (880m ほど)。 そこから北西に向かって河内長野市と千早赤阪村の村界尾根を歩いて千早トンネル。この尾根は千早に来れば誰でもよく見かけるがほとんど歩かれていないのでコース取りとしては良かろうと思ったが参加者は10人。
第5回 昭和50年3月16日 石ブテ西谷を下って石ブテ東谷との出合から石ブテ東谷を遡り、途中から丸滝谷に入って完全遡行。 16人が参加した。 金剛山を紹介しようというならやはり谷遡行なのか。
第6回 昭和50年4月20日 金剛山頂から下峠(シモトゲ)谷下降、国道309号線に出た。 通常谷は遡るものなので逆に下ると言うならどうなのか。18人参加した。
第7回 昭和50年5月18日 岩井谷遡行 岩井谷バス停で下りて200m南で千早川へ流下する谷で岩井谷と言えばどの辺りからほぼ検討が着くが本当はサンマイ谷かひの谷。千早の村からセトに向かって大きな黒栂谷道がある。 黒栂谷道を歩いていて左手 (西北側)の尾根 (清井山尾根) の一番高い所 809m へ裏側から突き上げている。 20人が参加した。
第8回 昭和50年6月15日 金剛山頂から坊領山まで楠木正成の歴史に出てくる上赤阪城跡を訪ねアシ谷を下って森屋に出た。 歴史探歩ということもあり、 久しぶりの尾根歩きとあって 26人が参加した。
第9回 昭和50年 国道309号線狼谷を登って山頂に至り、モミジ谷で素麺流しを楽しんだ。 素麺がうけて 35 人参加。
第10回 昭和50年8月24日 山頂に集合して行者杉峠から大沢寺へ下山。
第11回 昭和50年9月21日 R309 旧葛城登山口バス停で降りて下峠(シモトゲ) 谷遡行 22人参加した。
第12回 昭和50年10月19日 金剛山頂集合、 ダイトレの杉尾峠から橋本市の御幸辻駅へ この駅は昭文社の 1/2.5 万の地図の左下を少し広げてもらって何とか出ている。 参加者は千早本道を登っているからすごい距離に挑戦している。 それでも20人参加
第13回 昭和50年11月16 日 26人参加 金剛山から坊領山、足谷、森屋
第14回 昭和50年12月21日 住川バス停からクソマル谷遡行 18 人参加
第15回 昭和51年1976年1月18日 鳥井戸バス停から高天滝遡行。参加者10人。凍結した滝とか、 滝とは言えないまでも、 平素は上れない急勾配の段差を次々上って行った。 凍結しているとアイゼンがあるから流れのど真ん中でも平気の平左衛門。 ひとかどの沢師になった気分を楽しめた。他にも金剛山の東麓だけでも今回の高天谷、船路バス停からイワゴの谷、同じく住川バス停からクソマル谷などは金剛山では最もきびしい谷なので人気はあった。
第16回 昭和51年2月15日 水越川と石ブテ東谷に挟まれた中尾根の太尾。 葛城登山口でバスを下り、国道309号 650mほど東進、 石ブテ谷を渡り右手の石筆橋を渡って80m、左側に取付きがある。 背が高いだけに眺めよく、明るい尾根道だ。 この尾根を上って金剛山頂に登り着いたあと、白雲岳 985m 標高点から高天彦神社に出て鳥井戸でバスに乗った。参加者14人。 今もしっかり参加されている田中敏榮さん、 最も古い会員でこの日が初参加。お若い姿を今でも思いだすが考えてみたらあれから48年。参加者14人
第17回 昭和51年3月21日 上東坂バス停で降りて坊領谷から金剛山。33 人参加。 田中敏榮さんご夫妻と美栄さんが参加されている。上東坂バス停から坊領山に突きあげる坊領谷もなかなかの谷で、筆者が一人で下見に行って斜瀑で滑落してザックの背負いがちぎれ、背負えなくなった。 あとは手でさげて上るしかない。 難儀した思い出がある。そんな谷に人気があって参加者数はふえていった。
第18回 昭和51年4月18日 35 人参加した。 国道309号線の葛城登山口バス停で下車、 石ブテ西谷と石ブテ東谷に挟まれた石ブテ尾根を登って金剛山頂に至り鞍取坂道の777.9mの三角点の手前から北向きに小峠谷を下って元の葛城登山口バス停へ下山した。
第19回 昭和51年5月9日 初めて金剛山を離れて比良に出た。 八雲ヶ原から楊梅滝。 25 人参加した。
第20回 昭和51年5月16日 岩井谷遡行、 山頂からモミジ谷下山。34人参加した
第21回 昭和51年6月20日 石ブテ東谷遡行 35人参加した。
第22回 8月22日 鳥地獄から十字峠 参加者数 50人、 最高を記録した。
第23回 8月22日 水分神社旧葛城登山口バス停から池ノ谷遡行32人参加
第24回  昭和51年 1976年9月19日 クソマル谷遡行 国道24号線住川(スガワ)バス停から金剛山 難所の多い谷だが参加者29人
第25回 昭和51年 1976年10月17日  金剛山頂から金剛南尾根 (今の名でダイトレ) を下って紀見峠駅 参加者 24人
第26回 11月21日 国道24号線鳥井戸バス停から高天谷を遡行して白雲岳 985m 標高点下のダイトレ~金剛山頂 参加者 24人
以下省略するが安全対策を一回一回徹底的に検討しながら進んでいった。

 2.コロコロと 「ワンデルングガイド1 金剛山」
「関つり」で有名な関西のつり社が山にも進出することになって社名も「株式会社岳洋社」に変更した。 金剛山を探歩していると知った同社から金剛山を紹介したいので A5版 202 ページにまとめてほしい。 六甲山も出すので「ワンデルングガイド1 金剛山」 と 「ワンデルングガイド2 六甲山」の出版と会社創立の、たしか20周年を兼ねて披露パーティーをするので間に合うようにとの執筆依頼があった。原稿提出まで一年ほどの余裕しかない。一年で金剛山の全容を纏めるというのは無茶苦茶厳しいとは思った。 「金剛山」 のあと、本や雑誌の執筆依頼は多くなっていったが、平素は自分の仕事の工期、 納期で追い回されているのだから、3時間の睡眠、 それもある期間、 3時間を2回に分けて目覚ましをかけるといった生活が半年続いたこともあった。 遠路になると車は居眠り運転になる。危ない。 そうかと言って電車で行って居眠りで乗り越してしまったことがある。 若いから出来たもんだ。出版社が本でも雑誌でも、執筆を依頼してくる時はほとんどこんなもんで、原稿の締め切りを守るのに必死であった。 のんびり書かせてもらった記憶は全くない。
「金剛山」に戻そう。 しかし心配はない。 紹介できる登山価値のある安全なコースは 54 ある。 金剛山剛友会で踏査隊を編成、 14人がこの時とばかり頑張ってくれた。いままでの踏査の記録は手元で揃っていたから、あとは照合して疑問な箇所があればもう一度見直しに走ってもらった。創会後9年経っていたが、 突然「金剛山」 執筆の話が出て、 指示されたコースを一人で歩いてデータを報告してもらえる会員が14人いたことは大したものだと思った。まだ 9 年だから、 自分だけで歩くのは危ない。 不明瞭なコースが多いので不安だと思うだろうな。 事実危険だと思って「私もご一緒しますよ」と言っておいたが誰も声をかけて来なかった。これにも驚いた。 皆さん根性がある。 意地でも自分で探して歩いてやるぞ。
この本の記事は昭和59年 1984年その年の金剛山の登山道の実態を把握してそのまま書くことができたのである。 何年もかけて手元に蓄積したデータに基づくものではないところを評価された。 踏査された 14人のお名前を 「終わりに」 に書いたものだから、この本が出版されて当会もよく知られるようになった。
当時の会員中村宏二氏 「考案」制作のコロコロが働いていてくれた。 このコロコロの実測値を「金剛山」 に載せられたから読者に正確な距離をイメージしてもらえた。中村さんは昭和57年 1982年11月21日の例会に初めて参加された。太尾を登って太尾塞跡から一旦カヤンボまで下り、モミジ谷を遡って葛城山を一望できる所で金剛山登頂という第202回の例会である。 32人が参加している。 長いコースであるがうけたようだ。中村さんはお仕事ではステンレスの加工がお得意のようで、 ぐるぐる回りながら上り下りする階段の手摺りなども作られるとか聞いた。コロコロは山の中での測量で 99%の精度を誇っていた。 峠から峠、分岐から目立つポイントの距離は全て記録していてその記録をふんだんに生かすことができた。円周1mの円盤を転がしてカウンターに出た回転数をそのまま距離何mにする。「考案」というがそれくらい何が考案か。 ちょっとお待ち下さい。舗装道路で計る計器ならどこででも売っている。しかし測るのは舗装道路ではない。 石ころあり、丸太階段あり、崩れた崖道の段差はしょっちゅうある。 ここで歩くのに合わせて地面にきっちりくっついていくためには測量器が軽いと回転せずに前方に進んでしまう。 と言って重いと測り手の手首が疲れてしまう。3.5kgとした。輪の外周はきっちり1mでなければならない。コロコロで測るのは登り勾配は地面にピッタリくっつくので正確さが期待できる。 だが下り勾配のガタガタの道はむずかしい。 回転せずに前方へ進んでしまう。 1% の誤差があると 1,000mが 1,010mとか 990mになる。これで精度99%。これを限度とした。 コロコロを転がして 1%以上の誤差が出るとその日のその部分はパー。 やり直し。 コロコロを転がすのは時間限定で交代の指示はSLが担当した。 他の人も測り手をじっと見ていて 「今の段差でコロコロは飛んだ。 (回転していなかった。) やり直し!」 計器の数値を戻して測り直した。 緊張の連続であった。例えば山頂の社務所、 今の寺務所から10,000m地点にアルミの標を立てておいた。あらためて平成13年11月4日からダイトレコロコロシリーズの例会をスタートして14年8月11日に終わったが、この時の測量結果では差は僅かに 25m。この時コロコロを転がしていた長谷川寿一さんの興奮した声が今も耳に響く。 (10,000mで) 「25mの差ですよ!」竹内峠を越えるのは国道166号。 峠から東へ国道と平行して古い道があってまた先で合流する。 その合流点と峠との距離は平成14年1月14日と7月28日に行き帰り (上り下り)、 例会で測った結果がどちらも1,522m。ピッタリの数字が出ていて驚いた。結果は会報 NO.77 の P26 に出ているが下記のとおり。 屯鶴峰ダイトレ起点の碑から槙尾山施福寺の起点の碑の全コースについて 8回に分けて実施したが、 今回の測量で 48.818km、 以前の測量では 48.685km で差は133m。 1%未満なので今回の数値を有効とした。8回に分けたからダイトレのポイントと駅、バス停までのアプローチも測った。その結果は2003年(平成15年) 5月20日株式会社山と渓谷社発行「ヤマケイ関西 金剛山」の 「ダイヤモンドトレールを歩く」の120ページに掲載された。
「距離は金剛山剛友会が平成 13~14 年にかけて8回にわたって実測したもの」 資料提供金剛山剛友会と説明をつけて、屯鶴峰起点の碑から 12箇所のポイントの距離を載せている。ダイトレは広く世間に知られていて大勢のハイカーが歩いているが、 全コースの距離を正確に測量した記録はない。8回の努力が報いられた思いである。
精度の一例 葛城山布施城跡のポイントから麓の寺口の橋の距離。 急坂あり、段差ありの難所であったが、 測量の結果、当日の下り1,511m 次の測量日の登り 1,504m。「コロコロによる測量結果」 と書いたA4のノート1冊に昭和58年5月3日から平成14年8月11日までの測定結果を記してある。 古い登山道である千早峠五條バスセンター間を含めて、 金剛山中の多数のコースの距離測定結果と一緒にその時の参加者のお名前も記録している。 参考にしていただきお役に立てれば幸いである。

3.「金剛山」 執筆でお世話になりました。 有り難うございました。
「金剛山」 執筆にあたって登山者が山を歩く上での注意事項その他土地の歴史上の考察、由緒、 古い言い伝えについては千早赤阪村観光課はじめ御所市役所農林商工課、 五條市役所商工観光課、橋本市役所商工観光課、河内長野市役所商工観光課、 大阪府造林課、 御所市の極楽寺、橋本院、森村基男氏、五條市の大沢寺のご協力をいただいた。

 4.岸上和子さんと電路図
地図は尾根と谷は岳洋社の弘田明世さん (本の表紙の夫婦杉に腰掛ける左側の女性)が各コース案内の地図を正確に書き入れて下さったが、何しろ等高線のない概念図での案内になった。 近くにいても遠くからでも位置がしっかり分かるように電路図とその鉄塔を書き入れることにして山中での案内という目的を果たすことができた。 関西電力と電源開発にはたいへんお世話をおかけした。 岸上和子さんが電路図鉄塔配置図をコピーしてもらってきた。電路図は持ち出し禁止であった。 これは担当の営業所で管理していたので営業所をまわってしつこく食い下がった。 ここで負けてなるもんかと粘ったとお聞きした。 他の山のガイドブックを見てもらって用途を説明して、それなら良かろうということになったそうだ。

 5.ヘルメットと読売新聞
昭和54年 1979年1月10日金剛山剛友会のことは読売新聞に大きく報道された。登山者がほとんど通らない急斜面のルートは大勢で歩くと石を掘り出して落石の危険が大きい。当時の例会は人の入らないコース取りで金剛山を登ることが主流であったため、 例会参加にはヘルメットの着用を義務づけた。
登岩訓練やアルプスや大峰、 台高の谷遡行など所謂本格的な谷遡行では大きな滝も上るのでヘルメットは絶対着用ではあったが、金剛山で、と言うと「本格的な」人は笑った。 しかし時代は建設現場や工場で仕事するのもヘルメット。 自転車で家庭をまわって集金もヘルメット着用。名のある企業ほど工場内のヘルメット着用が厳しくなった。実はある日曜日、 仕事があって大和郡山市の工場へ向かったが中止になった。 帰宅しようと思ったが途中横道それて、よく行く高天彦神社へ車を走らせた。 高天谷が気になったからだ。 弁当とヘルメットはある。ないのは登山靴だけ。 思い切ってその時履いていた紳士靴でどこまで登れるかやってみようという気になって上りだした。 山頂まで登った。ルメットをかぶって足下は紳士靴。 異様な風体で恥ずかしかったのを思い出す。何とか山頂まで登れたのはその日の仕事で使うヘルメットを使うことができたから。
剛友会は当時は金剛山で滅多に人の入らない、 それでも踏み跡がある、夏など季節によっては、 会歌にある 「道なき道」を歩いていた。 落石、転倒の危険はある。 倒木や古い根っこや岩肌に頭をぶっつける。これらの危険はヘルメットで防げる。ヘルメットの着用をその時思いついた。金剛山でヘルメット。 読売新聞の目にとまり、 昭和54年のある日突然 「読売新聞です。」 と言って事務所へ人が入ってきた。 とっさに新聞の売り込みで来られたのかと言ったら、「そうではない。取材です。 剛友会では登山でヘルメット着用を義務づけているそうで、話しを聞きたい。」びっくり仰天。 剛友会が初めて世間で注目されたことをしっかり感じた。新聞を読まれた横山泰三さんが参加された。 昭和54年4月15日のことでこの日は建水分神社からスタートして坊領山から金剛山に登った。 この日は第99回、28人参加した。昭和60年10月13日にも読売新聞は「ワンデルングガイド1 金剛山 」を紹介してくれた。

 6.読売新聞清野博子さんと村上能子(ヨシコ)さん
その後も平成9年3月20日府庁山クヌギ峠の例会で金剛山の地勢や和歌山の山々を遠望しながら地図の読み方の勉強することになり19人が参加、磁石の北は大阪付近では本当の北と比べて 6.5 度西に傾いているから地図で山座同定をする時には注意するなど勉強した。会員村上能子(ヨシコ)さんがお友達で読売新聞編集委員の清野(セイノ)博子さんにこの話を伝えたが、それならとこの模様を取材に来て下さり、 4月4日の夕刊に大きく写真入りで掲載された。平成10年1月11日には芋谷の手掘りのトンネルを紹介しようという例会があって 33人が参加。 読売新聞の清野さんはこの例会にも参加され手掘りのトンネルや会の活動を取材してトンネルと参加者が紙面を飾ってくれた。 この手掘りのトンネル、 芋谷のトンネルについては橋本市へお願いしても資料が手に入らなかった。清野さんはトンネルの詳しい資料を橋本市役所から取り寄せ、それを私の方へ送って下さった。 さすが読売新聞と思った。これによると橋本市紀見村の世界的な数学者岡 潔さんが文化勲章を受賞され話題の人になっていたが、その方のおじいさん又一郎さんが私財をなげうって手掘りで建設されたものでつるはしの跡が生々しい。 長さはコロコロの実測で104m あった。こんなトンネルが他にあろうか。 莫大な労力が掛かっている。このトンネルで柱本がその南側を東西に走って御幸辻、 細川、 山内、 五條を結ぶ道につながったわけで大きな貢献をしたことと思う。 これを紹介しようとその後の例会でも取り上げたが今は通行禁止になっているのはまことに残念である。
折に触れて地図を読む練習もしたが、 何時のことか 地図とコンパス準備」と会報に書いたので円を書くコンパスを持って来られた方がいて、今も在籍されていて大笑いする。磁石と書けば良かったのに、地図の話になるとつい「地図とコンパス」になってしまってごめん。 大笑いはできない。

 7.日刊スポーツと小西敏明編集委員
妻の兄、 栗本光敏さんの縁で日刊スポーツも取材が多かった。 担当はいつも編集委員小西敏明さん。平成11年1999年9月5日に25周年記念 25コース集中登山を終日取材された。 101人が参加。 9月20日に1ページを割いて紹介された。平成16年5月23日、日刊スポーツは30周年記念30コース集中登山も取材されその経過や105人参加者全員の写真も6月15日大きく報道された。日刊スポーツ小西さんは金剛山葛城山のあちこちをご案内して豪華に紙面を飾って下さった。大和川の南側に明神山があって例会で何度も取り上げてきたが日刊スポーツもこのコースを取材された。 頂上の水神社の鳥居をくぐる西野美穂さんの大きな写真が出た。西野さんのことは折に触れて思い出す。25周年の祝賀会の帰り道で30周年の祝賀会は船上でしましょうと言い出され、それならルミナス神戸2にしようと提案され、 計画作りに船に二度も足を運ばれた。甲板に出るタイミング、船室での行事の行程を細かく検討もされた。30周年の船上祝賀会を成功させてくれた西野さん。 なんで亡くなってしまったの? そんなに急いで。お若くして亡くなった。 惜しい方を亡くした。
平成17年から葛城古道の例会を続けてきたのでお馴染みの方も多いと思うが、日刊スポーツもここで取材してもらった。
平成12年4月3日武庫川女子大学のスキー部員6人と教授2人が参加された。 楢原休憩所の手前側で学生が雄大な気色を背景に大きく写り、私は小さな丸い円の中にしょぼんと収まっていたのをそこを通る度に思い出す。
日刊スポーツの小西敏明さんは二十五周年の取材の時は妙見谷を登られた。 妙見滝を左から上ると谷を右下に見下ろすようになる。 並んで歩く隊列を写そうと、カメラを抱えて列を離れて谷を駆け下り、 対岸に上って我々が並んで様子を写された。 瞬間のことで身軽なのに驚いた。三十周年の時も私と一緒に太尾の道を登られて 「金剛山剛友会 三十年の歩み」 に寄稿してくださった。集中登山は両方とも参加、 取材できて嬉しく思っている。 太尾を登る途中、 長年の会員で娘さんの目が不自由になって今は退会している辻川さんが追いかけてきた。「今日は30周年記念の集中登山。 誰かに会いたい。 居ても立ってもいられなくて太尾の道を登ってきた」とのこと。20年間も剛友会のことを思いつづけた気持ちを目の当たりにして30年の重みってこれなんだ、と知りました。 と要点のみであるが小西さんはこのように書いておられる。

 8.毎日放送テレビ
毎日放送テレビも私の家で取材したいというので、 それなら理事会を取材してもらうということにして理事全員に遠路羽曳野市羽曳が丘の拙宅に集まってもらった。 平成4年8月24日のことである。いつものように活発な意見交換をしている模様を撮影してもらった。会議のあと最後に 「金剛山というのは根来さんにとってどんな山ですか」と質問されて余りに漠然とした質問で何と答えたものか。 カメラは止まらずに回るからしゃべらないといけないし、 まともな答えが思い浮かばないし頭は真っ白。 放送の日にどんな風に出るのか心配していたが心配無用。 必要なところだけを綺麗に纏めて放送してくれていたので安心した記憶が今も残っている。

9.毎日放送ラジオの 「ごめんやす馬場章夫」
「金剛山」 が岳洋社から出版された翌々年、 昭和61年5月23日毎日放送ラジオの「ごめんやす馬場章夫」の番組から金剛山のあちこちを案内してほしいとの話があって「金剛山」が出版されて1年半、 昭和61年1,986年5月23日を第1回に、 楠公関係や葛城古道、 金剛山や葛城山のあちこちを取材され、それぞれのコースの魅力を馬場さんと気楽に話して録音してもらい、数日後電波に乗った。
大抵は録音録画であったが小山乃里子さんと一緒にエロープウェイで上って金剛山頂を紹介する生放送もあった。 平成2年1990年11月23日のこと。当時動いていたロープウェイに乗って香南荘、伏見峠を通って山頂へ行きあちこち案内した。 ここでこの話、と思っていたらニュース、天気予報、交通情報、天気予報、コマーシャル。 思うようにいかんなと思ったのを覚えている。宮司さんにもお話をしてもらい、社務所(今の寺務所)の前で馬場さんと小山さんのインタビューに答える宮司さんの元気なお姿が、生放送を見学しようする大勢の人と一緒に、葛城家の方が写してくれた記念の大きな写真が7枚、手元に残っている。生放送では緊張感も体験した。岸上和子さんが「放送中はあのーとかえーっととかは口に出したらあかんで」 と言われて出掛けたのは今も記憶に新しい。馬場さんが放送で私の名を出す時は必ず「金剛山剛友会会長の」と、会の名前を出すことにも、この日だけでなく平素の放送でも会の名前を出すことにいつも気を配っておられたのには感謝したし恐縮した。

 10.朝日放送テレビ
朝日放送テレビ「ワイド ABCDE〜す」の番組からも出演依頼があり、撮影は平成12年5月9日、放映は5月15日。私は仕事の関係で打ち合わせの日も撮影の日も行けないのでお断りして三角ミチさん・村上能子さん・坪倉紘子さん・奥田朝子さんの4人の会員が出演した。場所は本来なら金剛山だが、 花を楽しめるということで葛城山となり、レポーターは河島あみるさん。「金剛山をホームグラウンドとして活躍されている」との紹介があり、演技も良かって安心したし、胸につけた剛友会のバッジがテレビ画面にはっきりうつしてもらっている! これも嬉しかった。
登山の注意点として出演の皆さんは
1. 肌を守る服装
2. 帽子を必ず着用
3. 上り坂では歩幅を小さく、段差の少ないところに足を進め、体力の消耗を防ぐ。
4. バンダナは万能品なので必ず1枚は持参。
5. 暑い時は、紙パックに保冷剤を入れて、果物などを。
6. 家族で行くときは、食べ物や飲み物は一人づつ持参。
7. 水を飲むタイミング。
など自然研究路を歩きながら話したが立派なものだ。頂上近くではタレントの河島あみるさんが感動した。 「カタクリの花って初めて見た!」 撮影後朝日放送テレビの担当者からお礼状がすぐ届いた。「来てもらえなかったのは残念ですが、 皆さんなかなかの演技でした。録画撮りは成功しました。」

 11.近畿日本ツーリスト
近畿日本ツーリストの依頼で金剛山葛城山を案内した。 同社肥後橋センタービルの講堂でその魅力を講演して後日そのコースを実際に歩くという企画であるが平成9年5月から12月まで7回あり、 毎回40人参加。この時は金剛山剛友会の会員がいつも数人、 安全とスムーズな進行のために協力参加してくれた。 最終回は散会後、 風の森の和田食料品店(剛友会での呼び名は田園レストラン) で慰労会をしたのを今も懐かしく思い出す。

 12.山と渓谷社 「大阪周辺の山を歩く」と撮影赤名貞義さん
昭和59年 1984年に岳洋社の 「ワンデルングガイド1 金剛山」 が出版されたあと株式会社山と渓谷社が1998年には 「大阪周辺の山を歩く」 を出版、 1年後には第2版が出た。 中庄谷直さんと吉岡 章さんと私の三人が、それぞれ得意とする山、 私なら岩湧山、 府庁山、 金剛山、 葛城山、二上山であるが竹内街道や葛城古道周辺を春・夏山、秋山、積雪期に分けて解説、周辺の温泉や屋外施設、自然や歴史を読者に再発見してもらえるような情報やデータを書いた。写真が素晴らしい。赤名貞義さんが取材に同行して撮って下さった。風景写真も人の目を引きつける写真だし、取材に同行して下さった方の写真もどれを見ても動きを感じさせ、道端の子供、川で遊ぶ子供は生き生きとしていて、今にも画面から飛び出しそうな躍動感溢れる写真を載せることができた。もう一つ赤名さんで思い出すのは葛城山の山頂での撮影。天気の関係で思うような写真が撮れないと5日間山頂で宿泊された。 立派な写真の陰には、お忙しい中、ほんとにご苦労様が隠れている。この本には取材協力として金剛山剛友会会員赤名貞義さん、赤名美智子さん、岸上和子さん、小林由美子さん、益田順子さん、中野秀治さん、小林純子さん等8人が載っているがいつも5~6人が同行してくれて写真のモデルになり、私が見落とさないように、また原稿に書き落としのないように気を配ってくれた。本に出る場面が毎回次々変わって行くだけに、取材の日の女性の衣装の色あいについては益田さんがあれやこれやとアドバイスされていた。
雑誌 「山と渓谷」 からも執筆依頼はよくあった。喜んではいられない。流石に金剛山は人気のある山だ。 毎回同じようなコース取りになる。 同じことは書けない。 歴史の勉強や新しい発見が必要になった。 江戸時代はこんなだった。 日本書紀にはこんなことが出ている。 中葛城山の三角点はこんなところにある。 書いたことのないことを掘り出す。土日は工場が休むからどの会社も工事は休日しかできない。 日曜日だけが休みの私は仕事と踏査で難儀した。何とか、何とかして生き抜いてきた。 今になってよく何とかなったものだとしみじみ思う。山と渓谷社は2003年には「金剛山」(A4版で162ページ)を出した。 これには金剛山剛友会例会「祝金剛山剛友会壱千回記念山行」に参加した48人の集合写真が大きく出ている。 写真には平成14年12月1日と明記されている。他にもコロコロの実測風景、社務所 (今の寺務所)から10,000mの地点に道標を立てている写真や参加回数に対して記念に表彰状を送る場面の写真も出ている。 画面が大きいからひとり一人はっきりわかる。 「コロコロとワンデルングガイド1 金剛山」で述べたコロコロで測った記録を出してもらったのはこの本である。翌2004年9月にも山と渓谷社から「金剛山」A5版144ページが出た。他にも山と渓谷社からは「大阪周辺の山250」や「ベストコース 250関西周辺の山」がある。やっぱり当会が研究対象としている山は人気があるといえる。

 13.JTBパブリッシング
株式会社 JTBパブリッシングの 「関西の山ベスト100」 や 「日帰りハイキング+ 立ち寄り温泉ベストコース50 」 でも金剛山、 葛城山、 二上山を紹介した。
テレビ、ラジオ、新聞、 ガイドブックなど次々出る幕があったことはそれだけ金剛山に関して新しい発見が必要であったし、書物を探して、また会員からご提供いただいた書物から知識を増やす必要もあった。津島美弥子会員にいただいた鳥越憲三郎著「古事記は偽書か」など何冊かの本には金剛山だけでなく私の一般的な常識を変えさせた。50年間金剛山剛友会に籍をおかせてもらって、仕事以外にも大きな楽しみと緊張感があったことで充実した人生を送らせてもらった。唯々感謝感激である。

 14.昭文社
昭文社のエアリアマップで私は育った。 昭和41年から金剛登山をはじめた。故仲西政一郎先生が書かれていた「山と高原地図 53 金剛山岩湧山」の初版を買い求め、金剛山のとりこになった。 おかげで金剛山がどんな山か大まかに勉強できた。 昭文社や色んな会社の先生の出版物の再版書き換えの時には天王寺の東にあった確か鉄道病院やご自宅を訪ねては、現地で踏査した結果の修正箇所の説明をした。100%私の考えを受け入れて下さった。ごく細やかながら恩返しができたと厚かましくも思っている。昭和63年1988年12月仲西先生がお亡くなられて、平成2年(1990年)の版から私が「山と高原地図 葛城高原二上山」 を出し著者紹介欄は「金剛山剛友会会長」となっているから会の名前もよく知られるようになった。
「山と高原地図 55 金剛山岩湧山」もこの時出た。地図で不明瞭な道は赤破線で出ているが、このような道は金剛山剛友会の例会で取り上げていたから、会員以外の読者に取っても不明瞭な道ではなかった。 これは有り難かった。葛城山、二上山にもハイキングコースは沢山あり、水越峠から紀見峠までの金剛山にも多くの登山道がある。先に述べた第1回から26回だけでも色々書いたが山頂につながる登山道は数多い。 25 コース、30コースの集中登山などは比較的明瞭な道であるが普通例会で取り上げるコースは夏にはブッシュが繁って道が分かりにくくなり、大雨やブッシュで問題点ありがちなコースが多い。ただこれだけは会員の皆さんにお願いしておきたい。 植林の中を歩くことが多い。 人様の山だから、歩かせてもらっていると言う気持ちを忘れてはならない。自分がその山の山主だったら、を常に考えて、山主さんに不安や不快感を抱かせるようなことのないよう常に気をつけよう。金剛山という山がどんな山なのか。 これを調べるのが金剛山剛友会の目的である。 そのためには歴史や自然 (どんな動物がいてどんな植物があるのか)、 地勢など研究対象は沢山あろうが、 歩いてみて危険がどこにひそんでいるのか、これを見つけるのも研究である。 どこの本にも載っていないし書くこともできない。今日はなくても明日にはあるかも知れない。 下見した夏にはなくても秋にあるかも知れない。

 15.金剛山の例会でよく歩いたコース 金剛山北面のみとする。
東側(御所市 五條市)、 南側 (橋本市)  、逆L字形の山並みの内側 (千早赤阪村 河内長野市) には数え切れないほどある。
鞍取坂道(一般道) 森屋、建水分神社から 777.9m 標高点の山を左手にして進むと青崩道に出て金剛山。 水分道の名もある。 中尾含真の土産枝折鞭 (イエズトシオリノムチ1738年)では「水分越」となっている。
泣石谷道 東水分バス停から約400m水越峠に向かって進む。 約400mで最初の右にはいる道は泣石谷道。 谷に沿って進み、左手の樹林帯に道を見つける。 尾根道を進むと鉄塔が見えてくる。 鉄塔は眺めが良い。あとは尾根通しで鞍取坂道に出る。
下峠谷道 東水分バス停からR309を水越峠に向かって東進し、1.8kmほど。右手の一軒家 (谷邸)で右手で水越川に合流する谷が下峠 (シモトゲ)谷。これを遡行する。この谷は最後鞍取坂に突きあげるが急崖で道はない。 少し手前で右に上れば鞍取坂道に出られる。
このルートにいやな思い出がある。 30歳台の若い方が初参加で一回だけ。谷を左に見下ろしながら細い道を歩いていたら後ろから怪我人ありとのこと。一人だけ谷に下りて段差のある小さな岩場を上ろうとして上れず、滑落して腕が痛い痛いと悲鳴を上げている。 例会はそこまでとして引き返し、公衆電話まで走って救急車を呼び奈良市の病院へ連れて行ったら腕の骨折と診断された。怪我は何でもないところでするものだからリーダーたる者、 「勝手な行動は厳禁」を朝礼で徹底しなければならない。
青崩道(一般道) R309旧葛城登山口バス停から東進し、トンネルと水越峠の分岐で水越峠の方に取ると公衆トイレがある。その手前で右にそれ、トイレの後ろ側を通り過ぎ、林道が右へまわったらすぐこの林道を離れて右手の山道を取ると青崩道。一筋道で金剛山
石ブテ西谷に沿う林道を詰める 石ブテ東谷と石ブテ西谷の出合の先600mほどで道は石ブテ西谷を離れて右へ上り、青崩道に出る。
太尾(一般道) R309 水分橋を渡って100m 先で水越峠へ向かう道を離れて右に折れ水越川に架かる石筆橋を渡る。80m先で左折して太尾に取付くと太尾塞跡961mを通って一筋道で金剛山
石ブテ東谷 太尾の道で80m先で左折せずそのまま石ブテ谷を右にして進む。大きな堰堤を右にすると間もなく石ブテ東谷と石ブテ西谷の出合に出て、 道は谷(石ブテ東谷)を渡って最初は谷を左にして歩く。 6m ほどの滝に出るがすぐ手前側で次に記す丸滝谷が出合う。 この滝は石ブテ東谷側にあり左手に巻き道がある。明るい谷で、巻き道を探しながらひたすら谷を詰めて行く。参考までにこの出合の滝は直登できそうでできない。落口でホールドがない。会員ではないが懇意にしてもらっていた方が谷遡行の技がお得意であったが、ここで滑落して大怪我をされたと聞いた。
丸滝谷 格別に難所と言われる悪場はなく沢身を歩いていけるが一か所高い段差があるので要注意。 滑落した人がいると聞いた。 剛友会では安全対策もしっかりしているのでよく例会に取り上げてきた。

ダイヤモンドトレールで金剛山(一般道)
次にあげる道は私も長年歩いていないのでどのようになっているのかわからないが、夏ならやぶあり、大雨が続けば谷の崩れもあろう。道の崩壊箇所もあろう。それに対して途中で止める。 それも良かろう。巻き道をして危険な箇所を乗り越す。ロープやテープなどで適宜安全対策を講じておいて、後日、当日の例会参加者が来ても、どんなハイカーが来ても無事に、怪我なく山頂に着く。会則第2条の研究の中にはこれも含まれる。
泣石谷道 東水分バス停から水越峠に向かって東進すること400m、右に取ると泣石谷に沿う泣石谷道で1kmほど先で谷を離れて左手の山の中に入っていって上りつめた所が鞍取坂道。
東水分バス停で水越川に合流する池ノ谷、 旧葛城登山口のバス停のすぐ東側で水越川に合流する小峠(コトゲ)谷。これもよく例会に取り上げた。崩道の西側の谷に沿って上っていって777.9m点の東側で鞍取坂道に上り着く。

 16.例会での危険 山主に迷惑は掛けない
金剛山北面以外金剛山北面のだけでこんなにあるが東側、つまり御所五條側。 逆L字がたの金剛山の内側にも登山できる道を例会にいくつも取り上げてきた。昭文社のエアリアマップ2001年版かそれ以前の以前のエアリアマップを参考にしていただくとお役に立てると思う。2002年版は最終版で、問題の起こりそうな登山道はカットしたからすべて安全度は高いと言える。しかし以前は問題なく歩けたが例会の日まで続いた大雨で傾斜のある道はゆるんだ。 こういうのはこわい。
石ブテ東谷の最後のガレ場の急斜面。私は例会で、大勢で石ブテ東谷を登っていて、最後のガレ場の斜面の下で靴のトラブルを直すのを手伝っていたように思えるが、4~5人が輪になってしゃがんでいた。先に斜面を登っていた人が石を蹴り出した。 蹴り出した本人は気がついていない。 バウンドしながら輪の中に飛び込んだ。 瞬間のことで声も出せなかった。 奇跡的に石は誰の頭にも当らず、若い女性の太股には当ったが大事故にはならず山行は続けることができた。 葛城山二上山についても然りである。ただくれぐれも守って欲しいのは山主にご迷惑を掛けないこと。 山主さんのご理解がないと登山はできない。 これを忘れないでほしい。 それと落石、滑落などによる怪我のないように何でもないところでも油断は禁物、 忘れないでほしい。例会を計画するためには3回も5回も下見をして危険な場所には安全対策をこうじることが必要である。 下見をしていたとしても、リーダーがその場その場で考えないと答えは出ない。 日が変わって例会当日になるとどこかで条件は変わっている。 落とし穴はある。 例会当日は、リーダーまかせでなく参加者も考える。 それも会則第2条の研究の一つである。

 17.金剛山頂の葛城家 134代目
金剛山を登り始めたのは57年前、それから間もない頃当時の宮司葛城貢さんに教えてもらって驚いた。 葛城家の系図の初代が天神立命、 別名頭八咫烏(ヤタガラス)となっている。日本書紀巻第三に書かれている。 神武天皇は回りの平定も終わって「あの畝傍山の東南の橿原 (橿原市でなく御所市の柏原)の地は、けだし国の最中に当たるようだ。ここに都をつくろう」と言われて即位された。その時功労者6人を論功行賞したと出ているがその一人が天神立命であって葛城家の初代、もう1人論功行賞の対象になったのは劔根命。 葛城家の系図を飾っている。葛城 貢宮司が 132 代であるから今の宮司葛城裕さんは134代ということになる。こんな家系の方が葛木神社の宮司をなさっているわけで、他の山にはない金剛山の特異性である。 葛城家の系図のコピーをいただいて驚いた。

 18.金剛山剛友会の特異性
50年も経つと金剛山剛友会のはじめの方を語れる人がごく少なくなった。私も88歳になって余命もいくばくの年頃。 思い付くままに書いてみた。もし例えば例会のコース選びなどで、この文中にお役に立てるようなことがあればご検討いただきたい。
先に金剛山北面、R309沿いに登山口がある金剛登山のコース、例会第26回までに取り上げたコースだけを参考までに書いたが、その気になれば葛木の山並みは大きい。それだけに危険も伴うが充分注意してこれらの登山ルートを鉈や鋏を携えて探索し、安全対策を充分検討した上で例会に取り上げ、会員の皆さんに楽しんでもらおう。この気持ちが尊い。会を支えていく。会則第2条に従って剛友会ならではの特異性を発揮してほしい。

 19.終わりに
「金剛山剛友会 十五年の歩み」は編集長 岸上和子、編集担当は理事 (当時の理事井藤喜一郎・井田秀和・宮川一夫・松山芳雄・西川 勝5人のうちのどなたであったか、お名前記載なし) と田中敏榮
「金剛山剛友会 二十年の歩み」は編集長 岸上和子、編集担当小林由美子・古川雅彦・宮川一夫・渡邊 要
「金剛山剛友会 三十年の歩み」は監修 岸上和子、編集長 田中 武、編集担当 竹本政子・益田順子

この3冊がこの稿を書くのに大きな力になった。 30年間のことが目の前に浮かびあがってくる。 私は三十周年まで会長をさせてもらったがこの3冊を作っておいてよかったとしみじみ思う。これらの歩みシリーズが50年以後にも金剛山剛友会の記録として作られていくことを切に願ってやまない。

2024年5月22日 根来春樹

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