会報No.135号のP41~50のレジメもお読みいただくと一層楽しいです。
役行者
父は加茂間賀介磨マカゲマロ、母は白専女シラトウメ。御所市茅原の吉祥草寺キッショウソウジで生まれた。32歳までは家から葛城山に通っていたが32歳からは家を離れて葛城山中で修行、葛をまとい松を食っていた。
呪術を習得して命令を聞かない者に対してはこれを懲罰的に対処した。
彼の呪術に師事していた韓国連広足は彼の呪術をねたみ、民を妖感するから国を転覆させてしまうと讒言し、結果として役行者は699年に伊豆に流された。
一言主神は久米の岩橋から金峰山寺に橋を架けろと役行者に命じられたが「要望が醜いので昼は働けず夜だけ働いたので橋を架けられなかった。」と言ったところ役行者は一言主神を呪縛して深い谷底へ幽閉したがその恨みで一言主神は役行者を讒言したという説もある。以上御所市史に詳しい解説がある。
一言主神社の祭神一言主神と雄略天皇の出会いが記紀にでている。
日本書記「雄略天皇」の項と「現代語古事記」(竹田恒泰著)より
狩猟していて出会い、一言主神が雄略天皇をお送りした記事は記紀で共通している。
日本書記
雄略4年(460年)雄略天皇は射猟をされた。谷の出会いで「長人」(=背の高い人)に突然出会った。「どこの方ですか」と尋ねると「姿を現した神であるぞ。先に王の御名を名乗りなさい。そのあとで私が名乗ろう」
天皇「私は幼武尊ワカタケノミコトである。」 背の高い人「私は一言主神である。」
そのあとはともに猟を楽しまれた。一匹の鹿が出た時には矢を放つことを譲り合う場面もあった。日が暮れて一言主神は天皇をお送りした。
古記事(日本書記の約100年後に作られた。会報No135号のP43参照)
ある時雄略天皇は百官に青染めの衣服に赤い紐をつけさせて葛城山で狩猟をした。向かいの尾根から行列が登ってきた。装束や人々の様子が天皇の行列とそっくり。天皇「この大和の国には私をおいて王キミはいないのにお前達は何者だ。」相手もそのように言った。雄略天皇は怒って自分も官人達にも矢をつがえさせた。
天皇「名を名のれ。名乗ってから矢を放とう。」 一言主大神「私が先に名乗ろう。私は凶事も一言で、吉事も一言で言い分ける神、葛城の一言主大神だ。」
雄略天皇すっかり恐縮されて「畏まりました。大神とは存じあげず失礼しました。」 天皇は官人に大御刀オオミタチや弓矢や衣服を脱がせて拝んで献タテマツった。
一言主大神は拍手カシワデを打って受け取った。一言主大神は山の峰から長谷山ハツセノヤマの麓まで天皇をお送りした。 リーダー記